「日本のクラシック音楽」のルーツを探る!

クラシック

日本人初のクラシック作曲家「幸田延」を深掘り!

こんにちは!バードです。

本日は意外と知られていない、日本人初のクラシック作曲家っていったい誰?
を深掘りしてゆきたいと思います!

最後までお付き合いくださいませ!

日本のクラシックの起源は一体いつ?

時は明治時代にさかのぼります。
「文明開化」の名のもとに西洋文化を積極的に取り入れていた時代です。

その中で「西洋音楽」も重要な柱として位置づけられていました。

そこで登場したのが「幸田延(こうだのぶ)」という女性です。

当時は圧倒的に「男性社会」。
参政権も男性のみで、女性に社会的地位はありませんでした。

当然「文化を嗜む」など、女性が享受できるはずもない時代です。。

当時「文明開化」を肌で感じることができたのは一部の上流階級の女性のみでした。
「格差社会」は現在よりも当時の方がはるかにあったんですよね、じつは・・・
西洋音楽は、そんな一部の女性の間にひとまず広まってゆきます。

さて、そんな日本の当時の状況のなか、歴史の表舞台に現れた「幸田延」という女性、
いったいどんな人物だったのでしょう?

「幸田延」ってどんな人?

生まれは1870年(明治3年)。
まあ、激動の時代ですよね、当時は。

幼少期の延は、母親より長唄などを教わりながら小学校へ通い、(当時小学校へ通える「女子」は相当裕福な家庭環境だったんじゃないでしょうか?)
その後、「音楽取調掛」という学校に進学します。

この「音楽取調掛」という名の学校、文部省所属の音楽研究機関で、厳密には「学校」ではなっかたですね。「研究機関で研究をする」、いわゆるエリートです、彼女は。
この機関、のちに「東京音楽学校」と改名され、現在では「東京芸術大学/音楽学科」と姿を変えて存在しております。

ここでの学生期間、延はめきめきと頭角をあらわし、トップの成績で卒業。(当然、女性であることも珍しかったでしょうね、当時は。)
その類まれなる才能は、当然その道の人物から目を引くこととなり、彼女のその後の人生は大きく変わってゆくこととなります。

日本人初の「海外音楽留学」に!

1889年(明治22年)、大日本帝国憲法が発布されました。
まさに「近代国家」の幕開けですよね。
この年、延は「第1回派遣留学生」に任命されます。
なんとこの時、延は若干19歳。

これは国費で行われた「近代化への国策」。
近代化へ向けて行われた、日本の命運をかけた一大プロジェクトなわけです。

おそらく現代では到底想像もつかないような、相当なプレッシャーだったに違いありません。。
それこそ、「命がけ」ですよ!まさに!!

しかもついこの間まで鎖国していた国ですからね。
文明開化の名のもとに、船でどんなところかもわからない場所に飛び込んでいくわけですから。若干19歳の、しかも女性が!

肌の色も、言葉も全く違う、海の向こう。

そこで「日の丸」背負って立ち向かうわけです。
国のお金を使って、学びに行くわけです。
「日本の近代化を進める!」というミッションを背負い。

収穫なければ、二度と祖国の地を踏むことは叶わない。

そんな覚悟は、きっとあったに違いありません。。

このプレッシャーの中、彼女は「アメリカ/ボストン」、「オーストリア/ウイーン」へ留学、5年ほど滞在しました。

留学中に「作曲家デビュー」!!

留学生生活は、想像を絶する苦労がありました。

・日本人であること
・女性であること
・言語問題

まさに「3重苦」ですよね。
これを乗り越える、不屈の精神、敬服に値します。

おそらく、

それを凌駕する、ずば抜けた「音楽の才能」が彼女には備わっていたのでしょう。

ウイーンでの留学生時代、現地にはそうそうたるメンバーが第一線で活躍していました。

・ブルックナー(当時69歳)
・ヨハン・シュトラウス2世(当時65歳)
・ブラームス(57歳)

すさまじいメンツですね。。
この人らが現役バリバリ・・
すごい時代です。。

そんな中、留学中の1895年、彼女は「ヴァイオリン・ソナタ第1番変ホ長調」を作曲します。
これが歴史上、日本人初の「クラシック作品」となります。

つまり、日本人による初のソナタ形式を用いたソナタ作品で、日本人初の西洋音楽作品である、ということですね。まさに歴史の1ページ!

さて、そんな歴史的な一曲、具体的にどんな曲だったのでしょう?

「ヴァイオリン・ソナタ第1番変ホ長調」

実際の曲がこちら

幸田延:ヴァイオリンソナタ 第1番 変ホ長調/ Nobu Koda:Violin Sonata No.1 Es-major

非常にロマンチックな仕上がりですよね。
作曲当時の彼女は25歳。
才能に年齢は関係ないですよね。

これはいつの時代も一緒。

日本音楽のルーツは「幸田延」にあった!!

帰国後は母校の東京音楽学校の教授に就任します。
ここでたっぷりと吸収した「西洋音楽」を演奏家、そして作曲家としてその後の日本の音楽に多大な影響を与えてゆきます。

彼女の教え子たちは、そうそうたるメンバーが名を連ねています。

・滝廉太郎
・三浦環
・本居長世
・山田耕作
・久野久
・萩原英一

彼らは彼女から学び、日本の音楽を作り上げてゆきました。
つまり、「日本のクラシック音楽」の原点は「幸田延」にあり!
といっても過言ではないでしょう。

その後は皇室への奉祝提供(混声四部合唱付管弦楽曲「大礼奉祝曲」(大正天皇即位の奉祝曲、歌曲「藤のゆかり」(大正天皇妃の誕生日(地久節)を祝うための曲)などの作曲活動や、演奏活動、後進の指導などに心血を注いでゆきました。

「幸田一族」あれこれ

ちなみに、この「幸田一族」、ただものじゃあありませんでした。

兄は作家の「幸田露伴」。
妹にヴァイオリニストの「安藤幸」。

やはり芸術家の血筋って、あるんですかね。。

おわりに

「日本のクラシックのルーツ」を追っていたら「幸田延」という女性にたどり着きました。

彼女は文明開化の日本で、当時社会進出が進んでいなかった「女性」という立場でありながら、その才能を武器に日本での「西洋音楽の浸透と発展」にその人生をかけた、バイタリティ溢れる人物だということがわかりました。

いま、クラシックがごく当たり前に耳にし、手に取ることができる現代、
彼女が夢に描いた未来と重なることはできたのでしょうか?

すくなくとも、日本が「音楽」で海の向こうへ飛び出すきっかけに彼女がいたことは間違いありません。
音楽の授業で、童謡など、日本の音楽の勉強ってしますよね。
その原点に、彼女はたしかにいるんです。
私たちのこころの奥底で流れている、「日本人としての音楽のビート」は彼女が作ったものかもしれない、と思うと歴史の妙を感じたりします。

また音楽のルーツを探る旅、してみようと思います。

以上、バードでした!

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