朝ドラ「エール」のヒロインのモデル、「古関金子」ってどんな人?

クラシック

こんにちは!バードです。

今回のテーマは、2020年放送の朝ドラ「エール」で
二階堂ふみさん演じたヒロイン「古山音」のモデルとなった「古関金子」について
深掘りしていきます。

最後までお付き合いくださいませ!

そもそも何の人だか、知ってますか?

朝ドラ「エール」、感動しましたよね。
二階堂ふみさんの演技も素晴らしく、涙した人もたくさんいたのではないでしょうか。

ドラマでは随分と脚色されて登場していましたが、実際はどんな人だったのでしょうか。

肩書は「声楽家」です。

さて、声楽家とは?

正式には「クラシックの歌曲やオペラを歌う人」ですね。

金子が生まれ育った時代は戦前。

当然今ほど音楽、特に「西洋音楽」とくくられたクラシックは一般庶民に普及していませんでした。

そんな中で「声楽家」になりたい、と志した金子、やはりタダモノじゃあなかったんでしょうね。

後世に名を残す人は、当時は「変人」扱いを受けていた、という話は枚挙に暇がありません。

そんな変わり者(!?)の金子はどんな人物だったのでしょうか?

音楽に目覚めたきっかけとは?

金子は1912年(明治45年)、現在の豊橋市に11人兄弟(!)の6女として生まれました。

「活発」「お転婆」が代名詞のような性格だったそうです。

兄弟のなかで音楽の道に進んだのは金子だけ。
誰かに影響された、というわけではなさそうです。
なぜ、金子はひとり「音楽の道」を目指そうとしたのでしょうか?

小学校の時に学芸会で演じた「かぐや姫」が大好評で、やはりその時の思い出が強く残っているのではないでしょうか。

・明るくて活発
・人前に出るのが好き
・とにかく注目されたい!

そんな性格が、学芸会での成功体験と相まって「歌を歌って人を喜ばせたい」につながったんだと思います。

「行動力」でつかみ取った自分の人生

当時は当然、今ほど女性の社会進出など進んでいませんでした。

そんな中「自分の人生は自分で切り開く!」
を実践した金子の行動力はまさに脱帽です。

1930年(昭和5年)、18歳の金子は「福島の無名の青年が、舞踊組曲『竹取物語』で国際作曲コンクールで入賞」という新聞記事を読み、その青年にすぐさまラブレター投函!!
という破天荒をやってのけます。
この相手が、素人時代の「古関裕而」となるわけです。

まあ、ふつうなら、

「おいおい、ちょっとおちつきなはれや。。。無駄やで、そんなことしても。」

という反応となりますが、

この行為に「返事が届く」という強運のカードを引き当てます。

まさに「そらみたことか!やってみなけりゃわからんやろ!!!」
とか本人が言ったとか言わないとか・・・

とにかく「やらなければ人生は変わらない!」
を体現し、自分で将来をつかみに行ったまさにその人でした。

その後はご存じの通り「文通」での交際を続け、「結婚」に至ります。

ネットが普及した現在で例えるなら、

「出会い系サイト」で女性の方からアクセスし、その後
「ダイレクトメール」にてやりとり、
そのまま勢いで「同棲」、「結婚」といったところでしょうか。

なんか、俗っぽくなってしまいすみません。。。。

この交際期間中、金子は雑誌編集者としての仕事をしつつ、声楽の先生について歌の勉強も進めています。

まあ、なんという行動力、バイタリティですよね。ホント。

結婚してからはどうしたの?

文通のやり取りを始めて4か月後には二人は結婚!

「思い立ったらすぐ行動!」

音楽家って、「感性で生きる」ってよく言われますけど、まさに二人はそれを地でいった感じとなりました。

翌1931年(昭和6年)に正式に入籍したので、それまでの期間は「同棲」ということになりますね。

それだけじゃあございません。

同年、(入籍直後です!あしからず。。)金子は帝国音楽大学声楽科に編入。
本格的に声楽の勉強を始めます。

この時点で

「古関裕而の妻」
「声楽科の学生」

の2足のわらじです。

結婚直後ですよ。

よくやりますよ、ホント。。

ここではベルトラメリ能子に師事します。
しかも声楽の才能は抜きんでていたのだとか。

さらに同年、長女出産で学校中退!!

忙しい!!

とにかく忙しい人生!!

詰め込みすぎ!!!!!(笑)

「声楽家」としての花はいつ開いたの?

時は進み、1934年(昭和9年)、金子は次女を出産後に声楽の勉強を再開します。

同じくベルトラメリ能子に師事を仰いで勉学に励みます。

・母となり、
・子育てをし、
・声楽家の道もあきらめない。

すごいひとですよね。
なんか、弱音はいてる自分が情けない・・・

そんな気持ちにすらさせてしまうほどのバイタリティです。

ベルトラメリ能子の門下生の中では一番弟子であり、先生から
「あなたはわたしの後継者よ!」
と言われていたほどの実力者だったようです。。。

すごい・・・

1941年(昭和16年)には「イタリア歌劇夕べ」というイベントにて

「カヴァレリア・ルスカティーナ」
「アイーダ」
「トスカ」

などの舞台を披露。

「イタリア歌劇の夕べ」での一枚(左端が金子)

まあ、この時期が声楽家として一番輝いていたのではないでしょうかね。

その後戦争が激しくなって声楽活動は中断となってしまいます。

戦後・晩年の金子の活動について

戦後はベルトラメリ能子の師匠である、ディーノ・ノタルジャコモを師事。
1949年(昭和24年)から50年(昭和25年)にかけて放送された、夫・古関裕而作曲のラジオオペラ

「朱金昭」
「トウランドット」
「ニガチの星」

こちらに藤山一郎、山口淑子らと出演。

これが金子の声楽家としての最後の活動となりました。

その後の金子は

・株式投資をはじめ「婦人トレーダー」として証券業界に殴り込み
・詩の創作
・油絵教室に通って芸術に目覚める。(賞までもらうスゴ腕!!)

とまあ、よく言えば興味が尽きず多才。
悪く言えば落ち着きのない人生。。。

すごい方に違いはありません。

まとめ

今回は作曲家「古関裕而」の妻、「古関金子」にスポットをあてて深掘りしてみました。

金子から学ぶことはただひとつ、

「自分の人生は自分で切り開く!!」

これにつきます。

「もしあのとき、あれをしておけば、その後の人生はかわっていたかもしれない。。」

なんてパラレルワールドは、残念ながらどこにも存在しません。

金子が自分の人生にて、何一つ行動を起こさなければ、きっとモノクロな人生を歩むことになったことでしょう。

人生は一度きり。

「どうせ生きるなら、やりたいこと精一杯やりましょうよ!」

そんなことを金子の人生が語りかけてきているように思います。

まあ、金子ほど人生を詰め込みすぎたらパンクしてしまいそうになりますが、
それでも悔いのないように、一日一日の自分の行動を大切にしていこうと思いますね。

今回の記事、「古山金子」について、下記の書籍が出版されています。

興味のある方は読んでみてくださいませ!

あとひとつ、金子の歌声、残ってました。

1933年(昭和8年)、リーガルレコードから出された「月の砂山」という曲です。

透き通った美しい歌声です。沁みますよ。。

月の砂山 内山金子(古関金子)

以上バードでした!

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